岩人間が悉く、恋愛とか対人関係で失敗しているのを見ると、愛し方の手本を知らないまま人間社会で生きるのってあまりにも酷だなと思う。

人間にとって愛情って生きるために必要なスキルだけど、岩人間の生態的に愛情って必要のないものなのに、人間と同じように(見様見真似で)やってみた結果があれ。
岩人間と関係を持つ人間側の性格に問題があるのは大前提だけど、「この人間は自分を大切にしてくれるか」のセンサーがちゃんと働いていないというか...「良い愛情とは何かを知らなかったから、結果がこれです」みたいなところある。(主に愛唱のことを思い浮かべながら...名前が「愛を唱える」で愛唱なの皮肉すぎない?)

8部って人間側の家族愛がとても尊く描かれているからこそ、生まれた瞬間から愛情を必要としない岩人間との対比が明確だな。愛情を受けずに育った生物には、人を愛することはできないのかって考えてしまう。そんなことはないと思いたいけど、あの「吉良吉影」の名前を受けた人間ですら、愛情を受けて育つとこうなります!って提示されちゃったからな...良い愛を与えるには、良い愛を受けて学ばないと難しいのかな...



4部吉良とか透龍とか、ラスボスの恋愛が大好き。
成就してほしい気持ちは一才なくて、君が君であるかぎりその恋愛って絶対に成り立たなくて、本当にどうしようもないな〜!の気持ちで見るのが好き。
たった一つ、改心もしくは諦めればその幸せって手に入れられるけど、その「たった一つ」を手放したら彼らじゃなくなるから。
しかも、そのルート分岐の境目にいることにすら気づいてないのが良すぎる。

透龍が康穂に求めてることって要するに「君は変わらずにそこに居てね」ってことだ。「思い出」は未来には存在しないものなのに、そこにずっと居てねって酷いこというよね。
現状に留まることや、変わらない自分に嫌気がさしている康穂にとってその要望って全く嬉しくない。
だって「行くべき方向を導く」精神の形をしている人間だよ。
「導く」が精神の形って、素晴らしすぎる。皆の希望で一番輝く道標となるようなジョースター家の人間ですら、その精神の形はしていなかったのに。
地図の形をしているっていうのが尚良い。導くものではあるけど、ただの「道具」でしかないっていう。それをどう使うかは、その使用者次第っていうのも康穂らしくて好き。

康穂は成長して強くなっても、「ママ、置いていかないで」って気持ちをまだ捨てられない迷子だから。康穂に導かれた側だけど、同時に「康穂ちゃん、こっちだよ」って手を引いて一緒に歩いてくれる定助を選ぶんだよ。

最初の愛情の話に戻るけど、名前をつけることを親から子への「初めの愛情の形」とするのなら「定助」にとって一番最初に受けた愛情って康穂からのものなんだな。掘り起こされた定助って、本当に生まれたての雛鳥みたいな感じだったし。初めに見たものを親と思うなら、定助にとって康穂が親だし、良き愛情の手本なのかも。

自信を持って「あなたを愛している」と言えるなら、「あなたを通じて、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。フロムの『愛するということ』でとても好きなところ。
定助は自信を持って言えるよな。
最後の「私自身を愛している」が特に好き。自分の生い立ちの不安定さを嘆いていた定助が、康穂に導かれてたくさんの人に愛情を与えられながら、最後には、自分のことを愛せるようになるまでが8部だから!
#jjba